2014年03月17日
自然に逆らわない生き方
九頭竜大社の教えに「自然に帰れ」というものがございます。自然に帰ってゆきましょう、自然に逆らわない生き方をしましょう、それが『心の器づくり』になり、九頭竜弁財天大神様よりのお恵みをますますいただけるようになる、それが「自然に帰れ」ということです。
「自然に帰れ」というのは言葉でいうのは簡単ですが、そもそもこの「自然」というのは、どのような状態を指すのか?
先日筑波大学名誉教授村上和雄氏の著書『アホは神の望み』を読み返しておりましたら、大変興味深いことが綴られていましたので以下に引用させていただきます。
『アホは神の望み』 村上和雄氏著 サンマーク出版 154頁155頁より
あるいは、人間の体は役割の異なる三百種類以上の細胞からなっていますが、そのそれぞれ異なる機能をもつ細胞は自分独自の働きをしながら、しかしそれだけに固執せず、他の細胞を助ける働きもしています。だからこそ、それらの細胞の集合体である一つの臓器の正常な働きが可能になるのです。
中略
なぜ、こんなみごとなことが可能なのか。
中略
少なくとも、こういう部分と全体の調和や助け合う仕組み、自分で活動しながら「他も利する」働きが自然発生的に行われているとは考えにくい。私はそうした「利他的な活動を行え」という情報が遺伝子に書かれているからだと思います。
分子生物学者でいらっしゃる村上和雄氏は以上のように綴っておられます。
つまり、人間はもちろん自分のことを考えて生きるのですが、自分のことばかり考えるのではなく、他を思いやり生かすように、そのように生み出されている、ということではないかと、私なりに理解させていただいております。ですから、「自分の欲ばかりを考えるのではなく、周りを思いやって、他者を生かそうという気持ちで生きる」ことが、人間にとって「自然」な生き方なのではないかと思うのです。
九頭竜大社の教えに「人は衆人愛語、慈悲でなければならない」とあります。「人は本来、わけへだてなくよい言葉を用い、慈しみや思いやりの心をもって周りに接しなければならない」という意味になろうかと存じます。このことが人間にとって自然な生き方であり「自然に帰る」ことになるのではないかと存じます。この「自然に帰る」生き方が、『心の器づくり』になるのです。
もっともこの「自然に帰れ」という教えは、他にもさまざまな表現の仕方が出来るかと思います。今回は九頭竜大社の教え「自然に帰れ」を考える一つの切り口として綴らせていただきました。
今回もご覧くださりまことにありがとうございました。
「自然に帰れ」というのは言葉でいうのは簡単ですが、そもそもこの「自然」というのは、どのような状態を指すのか?
先日筑波大学名誉教授村上和雄氏の著書『アホは神の望み』を読み返しておりましたら、大変興味深いことが綴られていましたので以下に引用させていただきます。
『アホは神の望み』 村上和雄氏著 サンマーク出版 154頁155頁より
あるいは、人間の体は役割の異なる三百種類以上の細胞からなっていますが、そのそれぞれ異なる機能をもつ細胞は自分独自の働きをしながら、しかしそれだけに固執せず、他の細胞を助ける働きもしています。だからこそ、それらの細胞の集合体である一つの臓器の正常な働きが可能になるのです。
中略
なぜ、こんなみごとなことが可能なのか。
中略
少なくとも、こういう部分と全体の調和や助け合う仕組み、自分で活動しながら「他も利する」働きが自然発生的に行われているとは考えにくい。私はそうした「利他的な活動を行え」という情報が遺伝子に書かれているからだと思います。
分子生物学者でいらっしゃる村上和雄氏は以上のように綴っておられます。
つまり、人間はもちろん自分のことを考えて生きるのですが、自分のことばかり考えるのではなく、他を思いやり生かすように、そのように生み出されている、ということではないかと、私なりに理解させていただいております。ですから、「自分の欲ばかりを考えるのではなく、周りを思いやって、他者を生かそうという気持ちで生きる」ことが、人間にとって「自然」な生き方なのではないかと思うのです。
九頭竜大社の教えに「人は衆人愛語、慈悲でなければならない」とあります。「人は本来、わけへだてなくよい言葉を用い、慈しみや思いやりの心をもって周りに接しなければならない」という意味になろうかと存じます。このことが人間にとって自然な生き方であり「自然に帰る」ことになるのではないかと存じます。この「自然に帰る」生き方が、『心の器づくり』になるのです。
もっともこの「自然に帰れ」という教えは、他にもさまざまな表現の仕方が出来るかと思います。今回は九頭竜大社の教え「自然に帰れ」を考える一つの切り口として綴らせていただきました。
今回もご覧くださりまことにありがとうございました。